2008年4月17日木曜日

逮夜

 和尚さんは逮夜には少しうんざりしていた。お経を読むのは僧侶の仕事だし、義務だから当然だとしても、法要の後の習慣と言うのが、はなはだしんどいものだった。
 和尚さんの寺がある地域では、逮夜には食事が出る。遺族と親類、時には友人や近所の人も加わって、法要が終わった後で、和尚さんを囲んでご飯を食べるのだ。
 この地域の逮夜は初七日から四十九日までの間、七日毎に行われるから、一軒の家でお葬式を出すと、和尚さんは4回逮夜に呼ばれる。
 遺族はご馳走を準備してる。法要なのだからそんなに贅沢しなくても、と和尚さんは内心思っているが、遺族はもてなすのが故人への供養だと信じているから、黙っている。
 困るのは、毎回出される料理が寿司や会席料理だと言うことだ。狭い田舎町だから、仕出し屋は同じ店だし、短期間にお葬式が集中してしまったりすると、毎日逮夜だったりして、毎日同じ味の同じ料理を別々の檀家で出される。
 正直なところ、和尚さんは食傷気味だった。
 Y家の当主が亡くなった。長患いして苦しんでいたので、亡くなって家族がホッとしているのが雰囲気でわかった。
 逮夜に呼ばれた。一逮夜目は定番の寿司だった。和尚さんは申し訳ないと思いつつ、残してしまった。
 二逮夜目は懐石料理で、これも残した。
 三回目。玄関で、「あれ?」と思った。トマトソースの匂いが漂っていたからだ。ニンニクの匂いもしたし、タマネギを炒める香りもした。和尚さんはなんだか落ち着かなくなり、お経を大急ぎで読んだ。(ばれたかな?)
 お料理は、トマトソースに鶏肉を煮込んだパスタだった。
 逮夜にパスタを出す家なんて初めてだった。和尚さんは美味しかったので夢中で食べてしまった。若主人に訊けば、彼の奥さんが作ったのだと言う。
「和尚さん、いつも残しておられるから、お袋が気に病んで、僕の嫁さんに台所仕事を押しつけたんですよ」
と若主人が笑いながら言った。
「僕も寿司よりこっちの方がいいや」
 帰り際、家族全員が玄関に見送りに出てきた。
「ご馳走様でした。スパゲティ、美味しかったです」
和尚さんは思わず正直に挨拶してしまった。奥さんが照れ笑いして、大奥さんは苦笑いした。
 それからも和尚さんはありらこちらの家に呼ばれて行くが、あれからパスタを出してくれる家には一度も遭遇していない。

2008年4月9日水曜日

鐘突堂

山寺の小僧さんが鐘を撞きに行ったまま帰って来なくなると言うことが度々起こった。和尚さんは初め、小僧さんが修行がイヤで逃げたのだろうと思っていたが、こう次々といなくなるのは解せない、と思い始めた。そんなに厳しくしているつもりはなかったし、どの子も逃げ出すような素振りがなかったからだ。
 これはどうしたものか、と思案していると、旅の僧が一夜の宿を求めて来た。
 端正なお顔で教養もありそうで、どこぞの大きなお寺の偉い坊様かも知れない、と思った田舎和尚は、その旅の僧侶に小僧さんたちの失踪の話を語って相談してみた。
「なるほど、それでこのお寺は夕刻の鐘を撞かないのですね。」
と旅の僧侶は納得して、一宿一飯のお礼に、明日調べてみようと言った。

 翌日、旅の僧侶は鐘撞堂へ行ってみた。山寺の鐘は、本堂から離れた藪の向こうにあったのだ。お堂には生臭い匂いが漂っていた。僧侶は和尚さんに頼んで、魚を一匹調達して、魚に糸を結わえ、鐘の下に置いた。
 夕刻、僧侶は鐘を一回だけ撞いて、藪の中に姿を隠した。
 暫くして、草むらから大きな蛇の様な物が出てきて、魚をぱくりと食べてしまった。大蛇が去った後には、魚に結わえておいた糸が伸びていた。
僧侶がそれをたどって行くと、森の奥に深い沼があり、糸はその中に消えていた。

 和尚さんはその話しを聞いて、村人を集めた。日が高い間に、みんなで沼の水を抜いた。その間、和尚さんはずっと声高らかにお経を読んでいた。
沼の底が曝されると、泥の中に、大蛇がうずくまっていた。お経で動けないので、村人たちに退治されてしまった。

 いなくなった小僧さんたちは二度と帰って来なかったけれど、それから失踪する小僧さんは出なくなったそうな。

 それから、旅の僧侶は、大蛇が退治されるのを見届けると、五色の雲に乗って西方の空に飛んでいってしまったと言うことだ。

2008年4月7日月曜日

ここにいるよ

「ここにいるよ」

 声が聞こえたような気がした。周囲を見回す。明るい木漏れ日が差し込む林の小径だった。すぐむこうには道路があって、クルマが数分おきに走り抜ける。ちょっと南に下ればドライブインがあり、シシ肉の味噌煮込みうどんが美味しいとかで、観光客が押しかける。北側にはキャンプ場があって、広場では多くのグループがバーベキューをしている。
 のどかな連休の午後。
 林の中にボク以外の人間がいてもおかしくない。だけど、その声はボクに話しかけているように聞こえた。
「誰?」
 と声に出して尋ねたが、そばに人がいるように思えなかった。
また歩き出すと、それは聞こえた。

「こっち。ここにいるよ。」

 若い女の声に思えたので、ちょっと好奇心で探求してみることにした。
声はボクを誘導し、林を通り、小さな社の横の坂道を上り、石段を登り、木の枝を滑り止めにした土の階段を上がって行った。

 突然目の前が開け、かなり下の方に道路や集落が見えた。いつのまにか山の頂上に来ていた。なんて素晴らしい景色なんだ!
真っ青な空、新緑の山、澄んだ空気、ぽっかり浮かぶ白い雲。

「ここにいるよ」

空の向こうで声がした。ボクを招いている。
飛んで行けるような気がした。

「危ない!」

いきなり後ろで大声がして、ボクは我に返った。目の前の地面がなかった。脚が竦んでしまったボクの服の背中をつかむようにして、リュックを背負ったおじさんがボクを引っ張って後ろへ下がらせてくれた。

「大丈夫かい? まさか、飛び降りるつもりじゃなかったんだろ?」
「すみません、景色に見とれてました。」

 背中も腋も汗びっしょりだった。おじさんはボクをじろじろ見て、それから谷間を見た。

「また出たんだな・・・」
「何がです?」
「なんだか知らないけど、一人で歩いている人を誘うヤツがいるんだよ。同じ所を堂々巡りさせたり、谷川で水浴びさせたり、悪戯するんだ。しかし、今日はちょっと笑えないなぁ。」

 一度遊んだ相手には二度と声をかけないから安心しな、とおじさんは言った。
 なんの声だったのか。ボクは帰り際、売店で買ったお菓子を林のお社にお供えして帰った。

2008年4月6日日曜日

参道

森の中のキャンプ場へ行った時のことだ。
夕食の支度まで時間があったので、仲間から離れて一人で散策を楽しんでいたら、山道から逸れるような細い道を見つけた。獣道ではない。綺麗な石畳だった。
なんだろう?
石は丸みを帯びた三角で交互に並べてあった。魚の鱗みたいに。
歩き出してすぐに気が付いた。その道は中央が少し盛り上がって左右に下がっている。
進むほどに、また気が付いた。中央が高くなり、ギザギザの石が立てて並べてある。こんな狭い道に中央分離帯か?
石畳の石がだんだん大きくなり、ギザギザも三角形になって大きくなる。

こ、これは、もしや・・・

道がピクピクと動いた。
そしてずっと前の方で声がした。

「くすぐったいから、降りてくれないか。尻尾だって敏感なんだぜ。」

2008年4月5日土曜日

ヴィトンの財布

出張で大阪に出た時、心斎橋で財布を拾った。ヴィトンの財布で二万円入っていた。近くの交番に届けて手続きして、帰った。
夜になって、警察から電話が掛かってきた。落とし主が現れて、礼を言いたいそうなので、こっちの電話番号を教えたと言う。そうですか、と言って、見つかって良かったですね、と電話を切った。暫くして、若い男性の声で電話が掛かってきた。財布の落とし主で、是非直接会って礼を言いたいと言う。電話で結構です、と言ったが聞かないので、それでは、と自宅の最寄り駅だけ教えた。
 翌日。
 大阪からここまでバスで二時間、電車でも山陽本線とローカルを乗り継いで3時間だから昼には着くだろう、と思ったが来ない。いらいらして一日待つだけでつぶれてしまった。
 考えたら、二万円ぽっちで、こんな田舎まではるばる来ることはないのだ。当人も馬鹿らしくなって止めたのではないか。こっちも一割の礼が欲しくて届けたのではないし、電話で既に丁重な言葉を聞いているのだから十分だ。そう思って夜になりかけた頃、彼はやって来た。
 綺麗な目をした若者だった。遅れたのは、彼のせいではなく、彼が乗るべき電車を尋ねた大阪駅の駅員が、山陽本線ではなく、福知山線を教えたので、ぐるっと京都方面を回って大回りで来てしまったからだとわかった。
 彼は菓子折を差し出し、何故こんな遠方までわざわざ出向いて来たか、その理由を語った。
「嬉しかったのです。」
と彼は言った。彼は海上自衛隊の潜水艦勤務の隊員だった。財布は彼の就職祝いに彼の祖母が贈ってくれた物で、祖母は亡くなってしまったので、大切な形見なのだと言う。久々の休暇で大阪に出て遊んでいたら落としてしまい、すっかり意気消沈していたが、交番に行くと届けられていたので感激したのだと。
 それから数年、彼は季節季節の故郷の特産品を送ってくれた。もう十分だからと丁重に断りを入れた後は年賀状だけの付き合いになったが、いつも丁寧な挨拶をくれる。
 今でもこんな若者がいるのだ。人を愛することを本当に知っている若者が潜水艦に乗務している。

教えて神様

教えてください、神様。
「花は万人から愛される存在」ではないのですか?
バラや桜は愛されるのに、どうして私は憎まれるのですか?
私は、ただ子孫を残す為に、他の植物と同じように花を咲かせているだけなのに。
神様、教えてください。
私はどうすればいいのですか?
  
 杉

2008年4月3日木曜日

この世の全て

朝目覚めてベッドから出て服を着るとバスルームで顔を洗い、部屋を出た。朝食は何にしようか。
 クルマに乗って走り始めた。すぐにガソリンが残りわずかだと気づき、ガソリンスタンドに入った。自分で給油する。この店はまだ大丈夫な様子。
給油が終わったら、スーパーに直行。
 果物コーナーでグレープフルーツを取り、パンと牛乳、コーヒーもゲット。
 食事を済ませると、本屋に行き、読みかけの本を一時間ばかり立ち読みした。それからヴィデオ屋に行き、店のテレビで「ライジング・サン」を鑑賞した。ショーン・コネリーの声が懐かしい。
 家で見る為のヴィデオを数本クルマに積む。
 次に洋品店で新しい服と下着を仕入れ、昼食の為にファーストフード店に行った。
 自分でハンバーガーを作り、焼いて食べた。
 携帯電話ショップ、旅行代理店、ギフトショップ。 かつて楽しかった店が今はちょっと空しい。
 夕食の材料として牛肉と野菜を手に入れた。肉はともかく、新鮮な野菜はあといつまでだろう。畑を耕すことを覚えた方が良いかもしれない。
 家路につく。どこかで「夕焼け小焼け」が鳴りだした。かつて子供たちに帰宅を促す為に流されていたメロディだ。
 もう子供たちはいない。
 親たちもいない。
 年寄りもいない。
 いるのは私だけだ。
 私が最後の人間。
 そして、何故か電力供給だけはコンピュータが正常に動いているらしくて、私は暮らしていける。肉も魚も冷蔵システムが正常に動いている限り、私は不自由しない。ガソリンも着る物も、この世に残された物は全て私の物になった。宝石もお金も、全部私が自由に出来る。

 だから? それでなんだって言うの?

2008年4月2日水曜日

時代屋

 時代屋って知ってる?
 ショッピングプラザ西館の地下にあったの。ちょっと不利な場所だった。
ショッピングプラザの地下って、東館の海側通路が一番賑わってるでしょ、昔も今も。ガラス張りの大きな窓付きのお洒落なレストランとか、カフェとか、ケーキ屋とかが入ってて、若い人や家族連れが多いよね。
 それから、東館の山側通路。こっちは間口が狭い店が多いけど、凝った料理で勝負してるね。客も冒険する気分だったり、通ぶったりする人が多い。
 大概の客は、東館通り抜けたら、連絡通路の広場でエスカレーターに乗って地上に上がってしまうでしょ? 
 西館は地味なんだよね。海側、そこそこ客があるけど、お店は和食系が大半で若い人は通り過ぎちゃう。客筋が年配の人中心になるから、店も地味な装飾だったりする。
 山側はもっと地味。お店も食べ物屋じゃない所が多いから、客も常連しか来ないのね。漢方薬店とか小物屋とかね。
 時代屋さんは、その西館の山側通路にあったのよ。連絡通路広場のエスカレーターの裏っかわ、山側通路に入ってすぐの所。間口の狭いお店で、うっかりすると見過ごしそうなほど小さい店だったけど、見過ごせなかったね。だって、ほら、とっても良い匂いがしてたもの。
 え? 何の店かって?
 時代屋さんは、カレー屋さんだったの。辛いカレーと甘いカレーとハヤシライスだけ出してた。10人座ればいっぱいのカウンターと、2人掛けのテーブルが三つだけの小さな店。壁に貼ってあったのは、昭和20年代から30年代の映画のポスター。流れていたBGMは、昭和の古いアメリカンポップ、店に置いていたタバコはゴールデンバットだけ。小物類も昭和の匂いムンムンだった。
 お店を切り盛りしていたのは、意外にも若い女性二人で、バーテンダーみたいな黒い服着てネクタイしてた。
 タイムスリップしたみたいなレトロなお店だったんだ。
 いつの間にか消えてしまってたけど。惜しいな、と思う。
 だって、カレーライス、とっても美味しかったんだもの。