2008年2月19日火曜日

バス停お婆

 大学正門前に行きたいって? じゃ、バスで行きなよ。タクシーで行っても、そんなに時間はかわらないよ。道が狭いからね、すぐに前のバスに追いついて、追い越せないまま目的地に着いてしまう。
小銭がない? 一万円だけ? ああ、両替はしてやれないよ、僕も小銭を切らしている。
だけど、大丈夫だ。バス停に行けば、バス停お婆がいる。
ほら、24枚綴りの回数券ってあるだろ? そう、駅前のオフィスで2000円で売ってる、あれ。あの回数券を一枚ずつ、100円で売ってる婆さんがいるのさ。まぁ、ダフ屋と言えばダフ屋かな。だけど、バスの中で両替して運転手に舌打ちされるよりは、ましだろう。
婆さん、身なりは悪くない。着ている物は古いが、ボロじゃない。それに回数券買う金を持っているんだから、そんなに貧乏でもないんだろう。
婆さんの回数券は、8枚1000円だ。割高だが、急いでるヤツは買う。婆さんは2000円で24枚買って、3000円で売るわけだな。一枚100円でも売ってくれるが、それなら現金でバスに払うよな、普通。
お婆は、客の顔を覚えてるから、普段定期券を持ってる人には売りつけない。だから、僕はお婆の客じゃなかったんだが、ある時・・・

 雨の日で、僕は大学正門前からさらに3つむこうの赤井神社の会館に行く用事があった。実はゼミをさぼってバイトに行く予定だった。定期券の範囲を超えるから小銭が必要だったが、持ち合わせが1000円札5枚しかなかった。テント張りのバス停の屋根の下で待っていると、お婆が現れた。他に客がいなかったので、がっかりした様だ。雨を避けて、お婆もテントの下に来た時、僕は声をかけた。回数券を1000円分売ってくれって。お婆は不審そうに僕を見た。僕が定期券利用者だと知っていたんだ。僕は、赤井神社に行くのだと言い訳した。
 すると、お婆はこう言ったんだ。
「定期券で、正門前まで行って、そこでバスを降りればいい。神社までは歩いて行けるだろ、若いんだから。」
 確かに歩いて行ける距離だったが、上り坂だし、雨降りだ。僕は嫌だった。金を払うのはこっちなんだから、素直に売ってくれればいいんだ。確か、そんな生意気なことを言ったと思う。
お婆は怒らなかった。怒る代わりに、ひたすら回数券を売ることを拒んだ。
「いい若いもんが、怠けるんじゃないよ。苦労は買ってでもするものさ。」
腹を立てたのは、僕の方だった。それならいい、二度とあんたからは買わない、とか何とか怒鳴って、そこに来たバスに乗った。お婆は僕の背中に向かって、「正門前で降りるんだよ」と言ったが、僕は聞こえないふりをした。
 バスの車内は満員だった。蒸し暑さと圧迫感でひどく不快だった。僕は赤井神社まで乗るつもりだったが、大学正門前にバスが着いた時、大勢の学生たちと一緒に降りてしまった。
そしてバスの後ろをついて行くように歩道を歩き始めた。

ドカンッと大きな爆発音がしたのは、その数分後だった。前方で火柱が上がった。
僕は仰天して坂を駆け上がった。
バスやタクシーや、一般車両が路上で立ち往生していた。前方の交差点でマンホールが爆発したんだ。多分、ガス漏れだったと思う。
幸い怪我人はなかったが、道路は数時間閉鎖され、バスは立ち往生したままだった。
僕は裏道を通って赤井神社に行ったのさ。

お婆が事故を予言したなんて言わないよ。お婆は僕に売りたくなかった、それだけさ。
予知能力なんてない婆さんだからな。
だから、君が回数券を買うのも、僕が紹介からなんて、婆さんはわかんないだろう。
え? ガス爆発はいつのことだって?
そうだな・・・君が生まれる前だったから、20年以上昔だな。

2008年2月15日金曜日

ヒロミ 2

「私は、林ヒロミさんと言う女性がどんな人か、探しているんだよ。」
「林ヒロミ?」
 山田は社員にそんな名前の女性がいたっけ?と考えた。
島岡が説明した。

息子の拓也が亡くなった時、当然ながらT電機工業の社員たちから香典が届いた。
社内香典は金額が設定されていて、最低で、女性は3千円、男性は5千円を出す。勿論、気持ちのものだから、払う義務はないのだが、拓也は重要な仕事をたくさん受け持っていたし、多くの社員とつながりがあったから、ほとんど全員が香典を出してくれていた。
「その中に、一万円を包んでくれていた人がいてね・・・」
高額の香典に、島岡は最初間違いかと思った。しかし、袋も高額のお金にふさわしいしっかりした物で、黒白の水引も立派な物だった。明らかに一万円を入れることを意図して用意されたのだ。
「その人が、林ヒロミ?」
「うん。T電機・林ヒロミ と書いてあった。」
島岡はショックだった。
拓也は独身だった。ずっと島岡は息子に良縁を望み、本人も結婚を希望していた。しかし女性と仲良くなれるのに、恋愛に行くことは何故か出来なかった。「いい人」「優しいお友達」で終わる男。
40代になると、島岡も拓也も諦めていた。そして、拓也の急死。
「倅に一万円も出してくれる女性はどんな人なんだろうと思ってね。少なくとも、息子のことを、嫌いではなかったのだろう。」
 島岡は、息子が一人の女性にもてた、と思いたいのだろう。
山田は知っていた、拓也は本当にもてたのだ。社内の女性たちは彼を好いていた。ただ、T電機の女性社員の大半は、既婚者だった。「独身だったら、島岡君とお付き合いしたのに」と彼女たちは言っていた。
だが・・・

我が社に「林ヒロミ」と言う女性社員はいない。

 山田は、一人だけ心当たりがあったが、島岡にそれを言う気にはなれなかった。だから、代わりにこう言った。
「小父さん、林さんは確かにうちの社にいますよ。でも、その一万円は、彼女一人で出したんじゃない。最低限度額よりも、まだ拓也君に香典を出したかった人たちが、有志で集めて、一人の名前でまとめて入れたんですよ。それは、拓也君のことを好きだった複数の女性たちの気持ちなんです。」
島岡は、そうなのか、と寂しげに、でも、少し嬉しそうに笑った。

 山田は会社に戻った。
島岡拓也が使っていたパソコンの前で、後輩の社員がせっせと資料を作成していた。
「はかどってるかい?」
山田が声をかけると、彼は振り返って微笑んだ。
「はい、島岡課長が作ってくれたソフトがめっちゃ使い良いので、どんどん仕事が出来ちゃいますよ。」
「君は彼を尊敬していたんだっけ?」
「ええ、兄さんみたいな人でした。僕、大好きでしたよ。男としてね、敬愛出来る上司でした。」
そう言って、林博海はにっこり笑った。

ヒロミ

 やはりそうなのか?と山田は島岡家の暗い玄関を眺めていた。信じられない、あの優しい島岡の小父さんが・・・。
「何か用かい?」
いきなり背後から声をかけられて、山田は跳び上がった。振り返ると、島岡が立っていた。手にはスーパーで買い物でもしたのか、白いレジ袋を下げている。中身は弁当か?
「あ、いや、ちょっと通りかかったもんだから・・・」
ちょっと冷や汗が出た。安堵の汗でもあった。違ったんだ、小父さんじゃなかった、あの報道の「老人」は。
島岡は山田をじろじろ見た。山田の狼狽振りを訝しんだのだ。
「用事があったんじゃなかったのかい?」
島岡は鍵を出して、玄関の戸を開けた。
そこへ、町内会長が通りかかった。
「ああ、山田さん、今夜8時から役員会をするから、頼みますよ!」
「え、臨時役員会ですか?」
「そう・・・川上さんのことでね。」
山田は、自分の勘違いに気づいた。町内会長が行ってしまっても、そこに立ちすくんでいた。
島岡が心配そうに声をかけた。
「どうした、浩一君。気分でも悪いのか?」
「あ、いや、何でもないです。川上さんのことで・・・」
「川上の爺さんがどうした?」
島岡の耳には、まだあの事件は届いていないらしい。
山田は意を決して話しかけた。
「小父さん、ちょっと時間をもらってもいいだろうか?」

 島岡家の座敷は、かすかに線香の香りが漂っていた。小さな仏壇には小さな位牌が二つ。10年前に亡くなった島岡の妻と、昨年急逝した島岡の一人息子拓也のものだ。拓也は山田の同級生で、同じ職場の同僚でもあった。体調の異変に気づき、病院で検査を受けて、一月で死んでしまった。あまりに急な死で、親族は呆然とし、職場は大混乱だった。拓也はかなり重要な仕事をたくさん受け持っていたからだ。45歳、独身のまま働き詰めの短い人生だった。
 山田は焼香してから、島岡にまず事件のことを語った。地方紙に、「○町5丁目で小学生が痴漢に襲われ、容疑者として75歳の男が逮捕された」と言う短い記事が載ったのだ。○町5丁目、まさに、それは山田と島岡が住む地区だった。容疑者の氏名が伏せられていたので、山田はてっきり同年齢の島岡かと疑ってしまったのだ。
 疑ってしまってのには、訳があった。
 島岡はこの半年、ずっと息子が勤めていたY電機工業の社員が出勤する時間になると、門のそばに立って女性社員をウォッチングしていたのだ。女性社員たちは気持ち悪がった。話しかけるでもなし、ただじっと目で追っている。特に悪さをするでもなし、なので、追い払う理由がない。それに、死んだ島岡拓也の父親だと重役たちも知っているから、理由がわからぬまま放置していた。
「小父さんを疑うなんて、僕は最低だ。すみません。」
頭を下げる山田に、島岡は手を振って苦笑いした。
「疑われるような真似をした私も良くなかった。拓也が生きていたら、叱られていただろう。」
あっさり許されて、山田はホッとした。考えれば、以前にも同様の事件を起こしていた川上の方が疑われて当然だった。先月は万引きで捕まっていた。どうやら年齢から来る精神の病気らしい。今夜の役員会は、川上が今後問題を起こさぬように、町内会で川上家をバックアップする方法を考える話し合いになるだろう。
「ところで、小父さん、毎朝、うちの女性たちを見て何をしているんです?」