ジョナスは、ジョナサンと言ったが、母はジョナスと呼んでいた。ジョンでもジョニーでもなく、ジョナス。
母方の親戚は、母が彼を拾ったのだと言っていた。母と私が暮らしていた緑の屋根のプール付きの家に彼が転がり込んできたのは、5年前の五月。親戚も近所の人も、いい顔しなかった。ジョナスは肌の色が違ったから。
私も出来るだけ近づかないようにした。母が彼を「パパと呼んで」と言ったときは、はっきり「嫌よ」と応えた。ジョナスは黙っていた。
彼が何の仕事をしていたのか、今でも知らない。彼は昼間家にいなかったし、夜も遅くなることがあった。母も働いていたから、私の生活は、以前とそれほど変わらなかった。変わったと言えば、休日はいつも三人になったし、母は私に気を遣っていたけれど、以前より笑うようになったことだった。それは良いことだと私も認める。
私の父親はろくでもないヤツだった。飲んだくれて母を殴り、喧嘩をしては警察の世話になっていた。母はあいつが終身刑の宣告を受ける迄、本当に苦労したんだ。
ジョナスが母を大切にしてくれるなら、それもいいかも知れないと、いつか思うようになっていた、ある日。
ジョナスが私を迎えに学校に来た。校長と話しをして、校長が何故か私を見て涙ぐんだ。
ジョナスは私を車に乗せ、母方の祖母に家に連れて行った。彼はそこでは招かれざる客であったが、その日は黙って迎え入れられ、祖母は私を抱きしめて泣いた。私は、母に何かがあったのだと、悟った。
ジョナスは祖父と少し言葉を交わし、祖父が怒ったような顔をした。ジョナスは私の元に来て、「いい子にしていなさい」と言った。「愛しているよ。」とも言ったが、私は祖父母がいたので黙っていた。
ジョナスは祖母の家を出て行った。それが彼を見た最後だった。
彼は母の葬儀に来なかった。来たくても来られなかったのだろう。母は白人専用の墓地に埋葬されたから。警察が墓地や緑の屋根の家や祖母の家の周辺を巡回していた。
街で殺人事件が立て続けに起きた。警察が何度か私のところに来て、ジョナスから連絡がなかったかと尋ねた。全くなかった。ジョナスは私の人生から既に姿を消していたから。
殺されたのは、3人、全部白人の男たちで、日頃からカラードに暴力行為を行っていた連中だった。ずっと後になって知ったことだが、母は彼らに殺されたのだった。母がジョナスと夫婦になったことが、彼らには気にくわなくて、「制裁」を与えたのだ。彼らは、本当はジョナスを痛めつけようと家に来て、でも彼は留守で、母がたまたま帰って来ていた。
警察は、ジョナスが報復をしたのだと信じている。彼は指名手配され、今も見つからない。
私には、わかっている、彼は二度と私の前には現れない。私を守るために。
私は祈る。彼が永遠に逃げ続けられるように。そして、どこかで立ち止まって、私たちのことを忘れて新しい生活を手に入れてくれているように、と。
気ままに思い浮かんだショート・ショートや、美味しい食べ物のことや、旅行の思い出を書いていきます。
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2008年1月5日土曜日
2007年12月7日金曜日
凧揚げ
タレントの家を紹介する番組で、ゲイラカイトを持っている人が出てきて、他のタレントたちから「古!」と言われていた。
かつて日本中の空を占領して、古来の紙凧を駆逐した三角形のビニル凧はどこへ行ってしまったのだろう?
小学校時代、冬休みの注意事項に「電線のあるところでは凧揚げをしてはいけません」と書かれていた。電線のない所なんて、神戸市内にないやんか。
と言う訳で、神戸で凧揚げをした記憶はないし、揚げている子供を見たこともなかった。
凧揚げは、母の郷里である和歌山のM町に帰省した時にしたのだった。
孫たちが集まって室内遊びに飽き始めた頃に、祖父とか伯父が「凧揚げでもせんの?」と言い、私たちを引き連れて近所のオモチャ屋へ行った。
竹の枠に紙を貼り付けた凧が売られていて、一人ずつ買ってもらった。幾らしたのか、知らない。そんなに高くなかったのだろう。
オーソドックスな奴凧はなくて、どれも武者絵が描かれていた。風林火山の武田信玄とか、敵役の上杉謙信とかで、秀吉や家康はなかった。
凧はそのままでは飛ばないのだそうだ。(空気力学とか浮力とか気流とか、そんな説明はしなくても良いです。聞いてもわからない。あっかんべー)
家に帰ると、みんなで新聞紙や障子紙を切って、凧の手足に糊で貼り付けた。
これは「尻尾」と呼ばれた。
尻尾が付くと、祖父は孫の一団を引き連れ、今度は海岸へ行った。
M町の海岸は、波打ち際から堤防まで50メートル近い広い砂浜が広がっている。凧揚げはそこで行われた。電線も樹木もないから、引っかかる物がない。
私の凧はなかなか揚がらない。従兄はすぐに高く揚げてしまって、余裕の表情。
祖父が揚げてやろう、と妙技を見せてくれる。凧を砂の上に置き、糸を引く。それだけで、凧がツイっと空中に浮かび上がる。祖父は糸を巧みに動かし、徐々に高く揚げていく。
やがて、凧が風に乗ったと思えると、やっと私に糸巻きを返してくれた。
海は、遮る物がない太平洋である。
その波の上空に凧が並んで浮かんでいる。
糸は何十メートルの長さだろうか? 随分遠くまで伸びている。
私は、ふと心配になって祖父に尋ねる。
「お爺ちゃん、凧が海に落ちたら、どうするの?」
祖父は悠然と答える。
「泳いで取りに行けばええ。」
凧揚げの思い出は、いつも快晴だった。
かつて日本中の空を占領して、古来の紙凧を駆逐した三角形のビニル凧はどこへ行ってしまったのだろう?
小学校時代、冬休みの注意事項に「電線のあるところでは凧揚げをしてはいけません」と書かれていた。電線のない所なんて、神戸市内にないやんか。
と言う訳で、神戸で凧揚げをした記憶はないし、揚げている子供を見たこともなかった。
凧揚げは、母の郷里である和歌山のM町に帰省した時にしたのだった。
孫たちが集まって室内遊びに飽き始めた頃に、祖父とか伯父が「凧揚げでもせんの?」と言い、私たちを引き連れて近所のオモチャ屋へ行った。
竹の枠に紙を貼り付けた凧が売られていて、一人ずつ買ってもらった。幾らしたのか、知らない。そんなに高くなかったのだろう。
オーソドックスな奴凧はなくて、どれも武者絵が描かれていた。風林火山の武田信玄とか、敵役の上杉謙信とかで、秀吉や家康はなかった。
凧はそのままでは飛ばないのだそうだ。(空気力学とか浮力とか気流とか、そんな説明はしなくても良いです。聞いてもわからない。あっかんべー)
家に帰ると、みんなで新聞紙や障子紙を切って、凧の手足に糊で貼り付けた。
これは「尻尾」と呼ばれた。
尻尾が付くと、祖父は孫の一団を引き連れ、今度は海岸へ行った。
M町の海岸は、波打ち際から堤防まで50メートル近い広い砂浜が広がっている。凧揚げはそこで行われた。電線も樹木もないから、引っかかる物がない。
私の凧はなかなか揚がらない。従兄はすぐに高く揚げてしまって、余裕の表情。
祖父が揚げてやろう、と妙技を見せてくれる。凧を砂の上に置き、糸を引く。それだけで、凧がツイっと空中に浮かび上がる。祖父は糸を巧みに動かし、徐々に高く揚げていく。
やがて、凧が風に乗ったと思えると、やっと私に糸巻きを返してくれた。
海は、遮る物がない太平洋である。
その波の上空に凧が並んで浮かんでいる。
糸は何十メートルの長さだろうか? 随分遠くまで伸びている。
私は、ふと心配になって祖父に尋ねる。
「お爺ちゃん、凧が海に落ちたら、どうするの?」
祖父は悠然と答える。
「泳いで取りに行けばええ。」
凧揚げの思い出は、いつも快晴だった。
2007年9月19日水曜日
受付窓口1
診療所の窓口で健康保険証を出すのは、この国では常識になっている。患者が診療費を支払えると言う保証を医師に示すのであり、医師の側は患者が何割の負担をするのか計算するのだ。急患の場合、患者の家族が後から保険証を提示することもあるが、普通は新患が自分で持ってくる。
なかには「保険は何ですか?」と尋ねられて、「○○生命です」と見当違いな返事をする人もいたが。
G夫妻がやって来た時、受付事務員は、そんなに気にしていなかった。怪我をしたので、保険証がなくても「慌てていたので持ってくるのを忘れたのだろう」と思った。
G夫妻は診療所の入り口の外で暫く口論していた。それから妻が先になって入ってきた。
「階段から落ちて頭を怪我したので、診てください」
受付で出された問診票に夫が簡単に書き付ける。怪我は妻の方らしく、右側頭部をタオルで押さえていた。
なかには「保険は何ですか?」と尋ねられて、「○○生命です」と見当違いな返事をする人もいたが。
G夫妻がやって来た時、受付事務員は、そんなに気にしていなかった。怪我をしたので、保険証がなくても「慌てていたので持ってくるのを忘れたのだろう」と思った。
G夫妻は診療所の入り口の外で暫く口論していた。それから妻が先になって入ってきた。
「階段から落ちて頭を怪我したので、診てください」
受付で出された問診票に夫が簡単に書き付ける。怪我は妻の方らしく、右側頭部をタオルで押さえていた。
2007年9月6日木曜日
正当防衛
「あれは酷い・・・」
「ええ、私も同感です」
「・・・害者は?」
「ショック状態で泣いてばかりいましたが、先ほどから落ち着いてきた様子です。」
「犯人は、当初空き巣目的でこの部屋に忍び込んだと言っていたな?」
「はい。そこに被害者が帰宅したので、犯人はクロゼットの中に隠れました。すると、被害者が着替えを始めたわけで・・・」
「ムラムラっときた男は、クロゼットから飛び出して、彼女に襲いかかった、と言うことだな?」
「はい、被害者と犯人の証言は一致しています。」
「当然、彼女は抵抗した・・・」
「はい。」
「犯人は?」
「まだ暴れています。四人がかりで押さえつけているんです。」
「無理もないだろう。あんな目に遭ったのだから。まだ、全部抜けてないんだろ?痛いだろうな。」
「しかし、彼女も死にものぐるいだったんでしょう。レイプされかけたのですから。あの程度で済んで、良かったと思うべきですよ。」
「しかし、哀れな気もするなぁ・・・」
「ええ・・・」
「急所にサボテンか・・・」
「ええ、私も同感です」
「・・・害者は?」
「ショック状態で泣いてばかりいましたが、先ほどから落ち着いてきた様子です。」
「犯人は、当初空き巣目的でこの部屋に忍び込んだと言っていたな?」
「はい。そこに被害者が帰宅したので、犯人はクロゼットの中に隠れました。すると、被害者が着替えを始めたわけで・・・」
「ムラムラっときた男は、クロゼットから飛び出して、彼女に襲いかかった、と言うことだな?」
「はい、被害者と犯人の証言は一致しています。」
「当然、彼女は抵抗した・・・」
「はい。」
「犯人は?」
「まだ暴れています。四人がかりで押さえつけているんです。」
「無理もないだろう。あんな目に遭ったのだから。まだ、全部抜けてないんだろ?痛いだろうな。」
「しかし、彼女も死にものぐるいだったんでしょう。レイプされかけたのですから。あの程度で済んで、良かったと思うべきですよ。」
「しかし、哀れな気もするなぁ・・・」
「ええ・・・」
「急所にサボテンか・・・」
2007年8月26日日曜日
曼珠沙華
和歌山のある町には、彼岸になっても彼岸花を見ることがない。
こちらでは、秋になれば田圃の畦道に真っ赤な花が並ぶのに。
「昔、日本はアメリカと戦争をして」
と老女が語った。
「曼珠沙華の毒で毒薬爆弾を作ってアメリカに落とすんだ、そうすればアメリカに勝てる、と軍から通達があって、町中で曼珠沙華を掘り返して、供出した。
本気で勝てると信じていたのか、わからん。
だけど、町中の曼珠沙華はお国の為に出征して行った。
そんな訳だから、この町には、今でも彼岸花は咲かないんじゃ。」
こちらでは、秋になれば田圃の畦道に真っ赤な花が並ぶのに。
「昔、日本はアメリカと戦争をして」
と老女が語った。
「曼珠沙華の毒で毒薬爆弾を作ってアメリカに落とすんだ、そうすればアメリカに勝てる、と軍から通達があって、町中で曼珠沙華を掘り返して、供出した。
本気で勝てると信じていたのか、わからん。
だけど、町中の曼珠沙華はお国の為に出征して行った。
そんな訳だから、この町には、今でも彼岸花は咲かないんじゃ。」
2007年8月18日土曜日
2007年8月12日日曜日
ギフトショップ
ギフトショップ中埜は、3桁国道の道ばたにあって、どっちかと言えば、土産屋と言った方がピンとくる和風の店構えだった。商品も地元の特産品がほとんどで、素朴な農産物の加工品が多い。洋子がアルバイトに雇われたのは、奥さんが臨月間近になって、立ち仕事が辛くなったからだ。
客が少ないから勉強しながら出来るだろうと思ったのが間違い。夏休みになると案外客が増えた。常に一人か二人店内で品定めをしている。こんな田舎で万引きなどいないだろうと思いつつも、洋子は監視しなければならなかった。
商品の中に和紙で作った人形のコーナーがあった。地元の婦人会が作った物を販売して、収益を折半しているのだ。食べ物と違ってあまり売れないのだが、綺麗なので装飾も兼ねている。和人形が9割を占める中で、一体だけピエロがあった。白地に赤い水玉模様の服を着て、玉乗りしている。可愛らしいので、洋子は売れるだろうと思って棚の全面に出しておいた。
次の日、何気なく棚を見ると、ピエロが舞子人形の後ろにいた。誰かが品定めして置き位置を換えたのだろう。洋子はピエロを前に戻した。
次の日も、ピエロは後ろにあった。誰だろう? 旦那さんだろうか? 洋子は再び全面に出した。ついでに舞子も横に出しておいた。
その次の日、洋子は学校に行き、ゼミ仲間と遅くまで過ごした。夕方、店に行くと、旦那さんが一人で店じまいの片付けをしていた。
「あれ、洋子さん、今日はお休みじゃなかったの?」
「ええ・・・前を通りかかったので・・・」
洋子の目は自然とピエロの方を向いた。そして、ドキッとした。
ピエロが、後ろにいた。そして、腰と直角に上体を向けて顔も同じ方向を向いているのに、目だけが、別の方向・・・旦那さんの顔を見ていた。
目は・・・本当は正面を見ていなければならないのに・・・。
洋子が思わず旦那さんを見ると、旦那さんは窓のブラインドを閉めていた。
洋子はピエロに視線を戻した。ピエロはもう正面、洋子を見ていた。
洋子は背筋が寒くなった。
「あの・・・」
「何?」
旦那さんは無邪気に笑顔で振り返った。そして洋子の緊張した表情に気づいた。
「どうかした?」
急に心配顔になった旦那さんに、洋子は無理に笑顔を作った。
「いえ、なんでもありません。赤ちゃん、まだですよね?」
「うん、お盆前後って話だけど、ちょっとぐずぐずしてるみたいだね。まぁ、今は忙しいからゆっくりしてもらって都合がいいけど。」
あはは、と笑うので、洋子も笑い顔でピエロを見た。ピエロは洋子を見ている。口は笑っているけど・・・。
すると旦那さんが洋子の視線の先に気がついた。
「ああ、こいつが気になったんだね?」
「これ・・・何か謂われでも?」
「そんなものはないよ。ただの紙細工だもの。だけど、こいつ、この棚が気に入っているみたいでね、うちの真弓が前に置いてもすぐ後ろに行くんだ、っていつもこぼしてた。君も同じ体験したのかな?」
「え! 奥さんも?」
「不思議だね。町長さんの奥さんが作ったんだよ。」
「あの、学校の先生なさってる奥さんですか?」
「そう。呪いとかそんなもの、なさそうだろう?でも、こいつ、移動するんだ。」
さっき旦那さんを見ていた、と言いそうになって、洋子は止めた。
「私、これをいただいていいですか?」
思わずそんなこと言ってしまって後悔したが、旦那さんは「いいよ。ただであげるよ。」と言ってくれた。
ピエロを紙袋に入れて、自転車の前籠に載せた。
夕暮れの田圃道を走っていると、振動でピエロが袋から顔を出した。洋子は声をかけてみた。
「ほら、夕焼けよ。」
ピエロはごろんと仰向けになって、空を見上げた。ピエロの白い顔が夕焼けでピンクに染まった。洋子は、ピエロの顔がとても緩やかになったことに気づいた。
「そうか・・・あなた、夕焼けを見るのが好きだったんだね!」
家に帰ると、洋子は一番夕焼けが綺麗に見える窓辺にピエロを置いた。どうして後ろ向きに置くのか、と家族が不思議がったが、洋子は黙っていた。
それっきり、ピエロは動かないで、毎日窓の外を見ながら玉乗りをしている。
客が少ないから勉強しながら出来るだろうと思ったのが間違い。夏休みになると案外客が増えた。常に一人か二人店内で品定めをしている。こんな田舎で万引きなどいないだろうと思いつつも、洋子は監視しなければならなかった。
商品の中に和紙で作った人形のコーナーがあった。地元の婦人会が作った物を販売して、収益を折半しているのだ。食べ物と違ってあまり売れないのだが、綺麗なので装飾も兼ねている。和人形が9割を占める中で、一体だけピエロがあった。白地に赤い水玉模様の服を着て、玉乗りしている。可愛らしいので、洋子は売れるだろうと思って棚の全面に出しておいた。
次の日、何気なく棚を見ると、ピエロが舞子人形の後ろにいた。誰かが品定めして置き位置を換えたのだろう。洋子はピエロを前に戻した。
次の日も、ピエロは後ろにあった。誰だろう? 旦那さんだろうか? 洋子は再び全面に出した。ついでに舞子も横に出しておいた。
その次の日、洋子は学校に行き、ゼミ仲間と遅くまで過ごした。夕方、店に行くと、旦那さんが一人で店じまいの片付けをしていた。
「あれ、洋子さん、今日はお休みじゃなかったの?」
「ええ・・・前を通りかかったので・・・」
洋子の目は自然とピエロの方を向いた。そして、ドキッとした。
ピエロが、後ろにいた。そして、腰と直角に上体を向けて顔も同じ方向を向いているのに、目だけが、別の方向・・・旦那さんの顔を見ていた。
目は・・・本当は正面を見ていなければならないのに・・・。
洋子が思わず旦那さんを見ると、旦那さんは窓のブラインドを閉めていた。
洋子はピエロに視線を戻した。ピエロはもう正面、洋子を見ていた。
洋子は背筋が寒くなった。
「あの・・・」
「何?」
旦那さんは無邪気に笑顔で振り返った。そして洋子の緊張した表情に気づいた。
「どうかした?」
急に心配顔になった旦那さんに、洋子は無理に笑顔を作った。
「いえ、なんでもありません。赤ちゃん、まだですよね?」
「うん、お盆前後って話だけど、ちょっとぐずぐずしてるみたいだね。まぁ、今は忙しいからゆっくりしてもらって都合がいいけど。」
あはは、と笑うので、洋子も笑い顔でピエロを見た。ピエロは洋子を見ている。口は笑っているけど・・・。
すると旦那さんが洋子の視線の先に気がついた。
「ああ、こいつが気になったんだね?」
「これ・・・何か謂われでも?」
「そんなものはないよ。ただの紙細工だもの。だけど、こいつ、この棚が気に入っているみたいでね、うちの真弓が前に置いてもすぐ後ろに行くんだ、っていつもこぼしてた。君も同じ体験したのかな?」
「え! 奥さんも?」
「不思議だね。町長さんの奥さんが作ったんだよ。」
「あの、学校の先生なさってる奥さんですか?」
「そう。呪いとかそんなもの、なさそうだろう?でも、こいつ、移動するんだ。」
さっき旦那さんを見ていた、と言いそうになって、洋子は止めた。
「私、これをいただいていいですか?」
思わずそんなこと言ってしまって後悔したが、旦那さんは「いいよ。ただであげるよ。」と言ってくれた。
ピエロを紙袋に入れて、自転車の前籠に載せた。
夕暮れの田圃道を走っていると、振動でピエロが袋から顔を出した。洋子は声をかけてみた。
「ほら、夕焼けよ。」
ピエロはごろんと仰向けになって、空を見上げた。ピエロの白い顔が夕焼けでピンクに染まった。洋子は、ピエロの顔がとても緩やかになったことに気づいた。
「そうか・・・あなた、夕焼けを見るのが好きだったんだね!」
家に帰ると、洋子は一番夕焼けが綺麗に見える窓辺にピエロを置いた。どうして後ろ向きに置くのか、と家族が不思議がったが、洋子は黙っていた。
それっきり、ピエロは動かないで、毎日窓の外を見ながら玉乗りをしている。
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