2008年1月28日月曜日

リーフ・ドラゴン

 このところ、収穫直前の豆を荒らす不逞の輩がいる。豆の鞘を剥いて、そのまま豆を捨てていくんだ。食べるとか、盗むとか、そんなんじゃない。ただ剥いて捨てる。けしからんと思わないか? 食べ物に対する冒涜じゃないか!
 そこで、俺はある晩、張り込むことにした。
 
 そいつはやって来た。真夜中、人目を忍んで、いかにも怪しい素振り。畑の中に踏み込むと、いきなりその辺の豆をむしっては皮をむき始めた。
 俺はそいつの後ろに忍び寄り、いきなり首根っこを捕まえた。
「おい! 豆泥棒、俺の豆になんてことをしやがるんだ!」
 男は「ごめんなさい」と繰り返し叫んだ。
「探していたんです、どうしても見つけたくて・・・」
「何をだ?」
「リーフ・ドラゴンです。」
「はぁ?」

 その時、近くでパキッと言う音が聞こえた。小さな小さな音だったが、俺にも男にもはっきり聞こえた。
俺は音がした方向を振り返り、月明かりの下で、一本の豆の鞘が割れるのを見た。
小さな生き物が顔を出した。
俺と男は同時に叫んだ。
「蛇だ!」
「ドラゴンだ!」
俺は男に向き直った。
「ドラゴンだ? あんな小さなドラゴンがいるものか!」
「だけど・・・」
男が哀しそうに言った。
「それが、リーフ・ドラゴンなんです。」
そして彼は俺に指摘した。
「ほら、飛びますよ!」

 鞘の上で、小さなドラゴンが翼を広げたところだった。本当に、翼だった。先っぽに爪が付いてる、ドラゴンの翼だ。
ドラゴンは深呼吸するみたいに、体を前後に伸ばし、縮めて、それから、ポッポッと鼻から火花みたいな火を吹いた。翼をぱたぱたと動かしたかと思うと、ふわっと宙に浮かんで、そのまま月の方へ飛び去ってしまった。

「ね? ドラゴンだったでしょう?」
と男が言った。
「あれを見るとね、一年以内に穏やかに死ねるんだそうです。私は病気で、余命半年だって言われてます。これで、安心して逝けますよ。」

2008年1月21日月曜日

今朝の事故

今朝午前6時3分頃、玄関脇の野菜ボックスの上で、お弁当に入る順番待ちをしていた蜜柑の列に白菜が倒れ込み、蜜柑数個が白菜の下敷きになる事故が起こりました。蜜柑は直ちに救出されましたが、うち一個は全身を強く打っており、またもう一個は外皮及び内袋破裂で、間もなく破棄されました。

2008年1月5日土曜日

ジョナス

 ジョナスは、ジョナサンと言ったが、母はジョナスと呼んでいた。ジョンでもジョニーでもなく、ジョナス。
母方の親戚は、母が彼を拾ったのだと言っていた。母と私が暮らしていた緑の屋根のプール付きの家に彼が転がり込んできたのは、5年前の五月。親戚も近所の人も、いい顔しなかった。ジョナスは肌の色が違ったから。
私も出来るだけ近づかないようにした。母が彼を「パパと呼んで」と言ったときは、はっきり「嫌よ」と応えた。ジョナスは黙っていた。
 彼が何の仕事をしていたのか、今でも知らない。彼は昼間家にいなかったし、夜も遅くなることがあった。母も働いていたから、私の生活は、以前とそれほど変わらなかった。変わったと言えば、休日はいつも三人になったし、母は私に気を遣っていたけれど、以前より笑うようになったことだった。それは良いことだと私も認める。
 私の父親はろくでもないヤツだった。飲んだくれて母を殴り、喧嘩をしては警察の世話になっていた。母はあいつが終身刑の宣告を受ける迄、本当に苦労したんだ。
ジョナスが母を大切にしてくれるなら、それもいいかも知れないと、いつか思うようになっていた、ある日。

 ジョナスが私を迎えに学校に来た。校長と話しをして、校長が何故か私を見て涙ぐんだ。
ジョナスは私を車に乗せ、母方の祖母に家に連れて行った。彼はそこでは招かれざる客であったが、その日は黙って迎え入れられ、祖母は私を抱きしめて泣いた。私は、母に何かがあったのだと、悟った。
 ジョナスは祖父と少し言葉を交わし、祖父が怒ったような顔をした。ジョナスは私の元に来て、「いい子にしていなさい」と言った。「愛しているよ。」とも言ったが、私は祖父母がいたので黙っていた。
ジョナスは祖母の家を出て行った。それが彼を見た最後だった。
 彼は母の葬儀に来なかった。来たくても来られなかったのだろう。母は白人専用の墓地に埋葬されたから。警察が墓地や緑の屋根の家や祖母の家の周辺を巡回していた。

 街で殺人事件が立て続けに起きた。警察が何度か私のところに来て、ジョナスから連絡がなかったかと尋ねた。全くなかった。ジョナスは私の人生から既に姿を消していたから。
 殺されたのは、3人、全部白人の男たちで、日頃からカラードに暴力行為を行っていた連中だった。ずっと後になって知ったことだが、母は彼らに殺されたのだった。母がジョナスと夫婦になったことが、彼らには気にくわなくて、「制裁」を与えたのだ。彼らは、本当はジョナスを痛めつけようと家に来て、でも彼は留守で、母がたまたま帰って来ていた。
 警察は、ジョナスが報復をしたのだと信じている。彼は指名手配され、今も見つからない。
私には、わかっている、彼は二度と私の前には現れない。私を守るために。
私は祈る。彼が永遠に逃げ続けられるように。そして、どこかで立ち止まって、私たちのことを忘れて新しい生活を手に入れてくれているように、と。

2007年12月7日金曜日

凧揚げ

タレントの家を紹介する番組で、ゲイラカイトを持っている人が出てきて、他のタレントたちから「古!」と言われていた。
かつて日本中の空を占領して、古来の紙凧を駆逐した三角形のビニル凧はどこへ行ってしまったのだろう?

小学校時代、冬休みの注意事項に「電線のあるところでは凧揚げをしてはいけません」と書かれていた。電線のない所なんて、神戸市内にないやんか。
と言う訳で、神戸で凧揚げをした記憶はないし、揚げている子供を見たこともなかった。

凧揚げは、母の郷里である和歌山のM町に帰省した時にしたのだった。
孫たちが集まって室内遊びに飽き始めた頃に、祖父とか伯父が「凧揚げでもせんの?」と言い、私たちを引き連れて近所のオモチャ屋へ行った。
竹の枠に紙を貼り付けた凧が売られていて、一人ずつ買ってもらった。幾らしたのか、知らない。そんなに高くなかったのだろう。
オーソドックスな奴凧はなくて、どれも武者絵が描かれていた。風林火山の武田信玄とか、敵役の上杉謙信とかで、秀吉や家康はなかった。
凧はそのままでは飛ばないのだそうだ。(空気力学とか浮力とか気流とか、そんな説明はしなくても良いです。聞いてもわからない。あっかんべー)
家に帰ると、みんなで新聞紙や障子紙を切って、凧の手足に糊で貼り付けた。
これは「尻尾」と呼ばれた。

尻尾が付くと、祖父は孫の一団を引き連れ、今度は海岸へ行った。
M町の海岸は、波打ち際から堤防まで50メートル近い広い砂浜が広がっている。凧揚げはそこで行われた。電線も樹木もないから、引っかかる物がない。
私の凧はなかなか揚がらない。従兄はすぐに高く揚げてしまって、余裕の表情。
祖父が揚げてやろう、と妙技を見せてくれる。凧を砂の上に置き、糸を引く。それだけで、凧がツイっと空中に浮かび上がる。祖父は糸を巧みに動かし、徐々に高く揚げていく。
やがて、凧が風に乗ったと思えると、やっと私に糸巻きを返してくれた。

海は、遮る物がない太平洋である。
その波の上空に凧が並んで浮かんでいる。
糸は何十メートルの長さだろうか? 随分遠くまで伸びている。

私は、ふと心配になって祖父に尋ねる。
「お爺ちゃん、凧が海に落ちたら、どうするの?」
祖父は悠然と答える。
「泳いで取りに行けばええ。」

凧揚げの思い出は、いつも快晴だった。

2007年9月19日水曜日

受付窓口1

 診療所の窓口で健康保険証を出すのは、この国では常識になっている。患者が診療費を支払えると言う保証を医師に示すのであり、医師の側は患者が何割の負担をするのか計算するのだ。急患の場合、患者の家族が後から保険証を提示することもあるが、普通は新患が自分で持ってくる。
 なかには「保険は何ですか?」と尋ねられて、「○○生命です」と見当違いな返事をする人もいたが。

 G夫妻がやって来た時、受付事務員は、そんなに気にしていなかった。怪我をしたので、保険証がなくても「慌てていたので持ってくるのを忘れたのだろう」と思った。
G夫妻は診療所の入り口の外で暫く口論していた。それから妻が先になって入ってきた。
「階段から落ちて頭を怪我したので、診てください」
受付で出された問診票に夫が簡単に書き付ける。怪我は妻の方らしく、右側頭部をタオルで押さえていた。

2007年9月6日木曜日

正当防衛

「あれは酷い・・・」
「ええ、私も同感です」
「・・・害者は?」
「ショック状態で泣いてばかりいましたが、先ほどから落ち着いてきた様子です。」
「犯人は、当初空き巣目的でこの部屋に忍び込んだと言っていたな?」
「はい。そこに被害者が帰宅したので、犯人はクロゼットの中に隠れました。すると、被害者が着替えを始めたわけで・・・」
「ムラムラっときた男は、クロゼットから飛び出して、彼女に襲いかかった、と言うことだな?」
「はい、被害者と犯人の証言は一致しています。」
「当然、彼女は抵抗した・・・」
「はい。」
「犯人は?」
「まだ暴れています。四人がかりで押さえつけているんです。」
「無理もないだろう。あんな目に遭ったのだから。まだ、全部抜けてないんだろ?痛いだろうな。」
「しかし、彼女も死にものぐるいだったんでしょう。レイプされかけたのですから。あの程度で済んで、良かったと思うべきですよ。」
「しかし、哀れな気もするなぁ・・・」
「ええ・・・」


「急所にサボテンか・・・」

2007年8月26日日曜日

曼珠沙華

和歌山のある町には、彼岸になっても彼岸花を見ることがない。
こちらでは、秋になれば田圃の畦道に真っ赤な花が並ぶのに。
「昔、日本はアメリカと戦争をして」
と老女が語った。
「曼珠沙華の毒で毒薬爆弾を作ってアメリカに落とすんだ、そうすればアメリカに勝てる、と軍から通達があって、町中で曼珠沙華を掘り返して、供出した。
本気で勝てると信じていたのか、わからん。
だけど、町中の曼珠沙華はお国の為に出征して行った。
そんな訳だから、この町には、今でも彼岸花は咲かないんじゃ。」